「好きなことで生きていきたい」
そう願っているのに、なぜか動けない。準備はしているし、気持ちもあるのに、いざとなると足がすくむ。
そんな自分を「甘えているだけかも」と思ったり、「意志が弱いのかな」と悩んだりしていませんか?
こういうとき私たちはつい自分を責めてしまいがちですが、その必要はありません。
なぜならそれは、あなたの深い心の一部が、あなた自身を守るためブレーキをかけているのかもしれないからです。
今回は「なぜか動けない」の奥にある【見えない原因】を、潜在意識や身体感覚の視点から考えていきます。
思考ではたどりつけない身体の奥に、「動ける自分」へのカギが隠れているかもしれません。
「「なんで動けないんだろう?」と考えれば考えるほど動けなくなる」という真実を知る
さて、ここでは「動きたいのに動けない」の一例として、不登校をあげてみますね。
学生時代に不登校を経験した方は分かると思います。
ハッキリとした「行きたくない・行けない」原因があることもありますが、自分でもなぜ行きたくないのか分からないというケースも、実は多いのです。
私自身も、ごく短い期間でしたけど経験があります。
どうしても学校に行きたくない。別にいじめられているわけじゃない。学校の先生や友達が嫌いなわけでもない。勉強についていけないわけでもない。でも、なぜか学校に行けない。
あなたにはそういう経験ありませんでしたか?
親に「どうして行きたくないの?」と訊かれても、自分でも分からないから答えようがない。
ただ「行きたくない。動けない」ということだけがハッキリしている。
自分のことなんだけど、本人にも分からないわけです。
で、こういうとき私たちは頭を使って「なんでなんだろう…」とさんざん原因を考えあぐねて、理屈をこねくりまわします。
でも、いろいろ考えてそれらしき理由はいくつか出てきても、「私に起きているのはこれだ!」っていう決定打としての「正解(原因)」が分からないことって多いと思うんですよね。
原因は「思考」ではなく「感覚」の中にある
それもそのはず。
「考えること=思考(頭)」は、いま自覚できている「理由かもしれないこと」のいくつかを足したり掛けたりして考えて、なんとか「正確な原因」を導き出そうとします。
でも、実際に学校に行きたくなくなっている原因って、「考える=思考(頭)」の世界にはないんですね。
それは学校や家庭の中で生まれるさまざまな「気持ち」とか「感情」の絡まりあった問題であって、感情と連動して身体で感じている緊張とか怖れとか不安などの「身体感覚」、つまり「感じる=感覚感情(身体)」の問題なんです。
しかも、本人はそうした感情や感覚をなるべく感じたくないと思っている。
だから無自覚のうちに、そうした感情や感覚を身体の奥深くにしまいこんで感じないようにしているわけで、そもそも意識に上っていないんですよ。
これは本人も気づかないうちに、心を守ろうとする潜在意識が、いわば「勝手に」やっていることなんです。
意識に上っていない以上、頭(思考)は正解に至る材料をもっていないということなので、あーでもない、こーでもないと、的外れなところでいろいろ足したり掛けたりして理由を挙げてみる。
でもそうやってゴチャゴチャ考えることで、思考はむしろ心と身体にしまってある正解(本当の原因)から遠ざかっていく。
家族や先生も心配してあれこれと憶測しますが、本人にとってはどこか的外れだったり。
でも心配してもらっていることは心苦しいし、プレッシャーを感じる。
そうした周りからのプレッシャーが、ますます本人の焦りを掻き立てて、かえって混乱を深める要因になることもある。
そういうことって案外多いと思うんです。
感じて、受け容れることで起こる変化
「自分の好きな道で生きていきたい。だけど、やろうとしてもナゼか一歩が踏み出せない」っていうのも同じです。
一歩が踏み出せないことの本当の原因が意識で分かっているなら、すでに何らかの手を打っているはずですよね。
でも分からないから「やりたいのにできない!」「動きたいのに動けない!」という状態が何週間も、何か月も、場合によっては何年も続いている。
そして思考を働かせて頑張っていろいろ原因を考えてきた方ほど、もはやどこに的を絞って何をどう考えれば解決するのか、分からなくなっていたりします。
こういうときにアプローチすべきは、やっぱり「感じる世界」なんです。
頭で考えるほどにどんどん横道に逸れていっちゃう「思考」はちょっと脇に置いておいて、
「これからやろうとしていることに対して、私はどんな気持ちや身体の感覚を感じているのかな」
ということに意識を向ける。まずはここが入り口です。
でも、まだこれだけでは不十分。
「この感じている気持ちや身体の感覚はどこからきているのかな」
「なぜこんなふうに感じるのだろう」
と、理屈ではなく、心と身体が感じていることを頼りに、自分の内側の感覚の世界を深掘りしていくんです。
すると、
- これからやろうとしている未知の対象に対する不安
- 生じうるリスクに対する恐れ
- 「本当に私にできるのだろうか」などの自己不信感
- 「本当にやっていいのかな」という疑念
- またそれらから生まれる身体の緊張
などが出てくることが多い。
もしこうした感覚・感情が自分の中にあることに気づいたら、ちゃんと感じて受け容れていくと良いのですね。
これをじっくり、なるべく的を外さないように丁寧に根気強くやっていくと、「自分の気持ちを分かろうとしてくれている自分」に対して、心と身体の奥の方で信頼が生まれます。
そしてこのプロセスによって「受け容れた自分」と「受け容れられた自分」の両方が生まれます。
どちらも自分自身なのですが、頭で知的に理解しようとする自分と、心と身体で何かを感じている自分が「分かり合う」ということが起きるのです。
これは「自己理解」というよりも、もっとその先の「自己受容」という状態です。(頭で「理解」していても心身で「感じて」いないこともありますからね)
こんなふうに「感覚・感情を認めてもらえた、受け容れてもらえた」と感じると、身体ははりつめた感覚をといてホッと息をつくことができます。
そして安心して、受け容れてくれた自分への信頼感(自己信頼)が高まっていきます。
また頭の方でも、「ああ、私(の身体)はこんな気持ちがあったから抵抗していたんだな」と、それまで分からなかった自分の「やりたいのにできない」の動機がつかめるようになるんですね。
するとこの2つの自分の側面の歩み寄りが起こります。
そして「行動したいのに動けない!」という状況を作っていた「心と身体の抵抗」は軽減または解消します。
それによって頭と身体の双方が同意できる一つの意志や考えにそって、行動できるようになるのですね。

アクセルを踏む前にブレーキを外そう
これはいくら頭で「動けない理由、原因」を考えても到達しない境地です。
動けない状態に「ついて」知的に考えるのではなく、動けなくなるような気持ちや感覚を感じている自分をちゃんと「感じて」受け容れる。
その結果、動けなかった「本当の原因」はこれだったんだなと、後から知的に理解できるのです。
逆に言えば、「動けない!」という状態が続いているということは、自分の中にまだ気づいていない、受容してあげる必要のある何らかの感覚・感情が取り残されているということなんです。
ときどきこうした感覚・感情を置き去りにしたまま、根性と馬力でガンガン進もうとされる方もいます。
でもその方法では、途中で強い違和感を感じたり、反動でより強力なストップがかかったり、場合によっては身体をこわしてしまったりすることもあります。
これは心と身体の声を無視して、ブレーキを踏んだままアクセルをふかして走っている状態。
この状態だと、ふと気が緩んで動きを止めたときにまた動き出せなくなってしまったり、身体が自ら不調をおこしてストップさせようとするのですね。
一方で、きちんと自分の中にある「進むことへの抵抗感」を見つめ、潜在意識の中で「自覚できない自分の一部」が何を感じているのかを感じて受け容れた方たちは、最終的にはその自分の一部を味方につけて前進を加速することができます。
こうした取り組みは、身体の感覚を司っている潜在意識へのアプローチがとても効果的です。
思考よりも先に、“感じる”ことからはじめよう
もしあなたが「動きたいのに動けない」と感じているなら、無理に理由を頭で探し続けるのではなく、
いま感じているモヤモヤやザワザワ、胸のつかえや身体のこわばりといった「感覚」に意識を向けてみてください。
思考ではたどりつけない答えが、その感情や身体の声の中に隠れているかもしれません。
行動できない自分を責めるのではなく、「感じる」ことから始めてみる――それが、ほんとうの前進の第一歩になります。